2014年10月11日土曜日

指示待ち人間

親の心理は必然的に子どもの心理に影響を与える。子どもは心理的に独立しておらず、彼らの心理状態はほとんど一〇〇パーセント、親の心理によって決定される。しかもその影響は親の意識的な心理によるよりは、むしろ無意識の心理によるところが大きい。親が自らの心理に無意識であればあるほど、子どもは親の無意識の影響をもろに受ける。戦中派の人々が自らの心理に無意識であるかぎり、彼らの子どもの世代は幟巾派の持っている無意識の偏りの犠牲にならざるをえない。戦中派は希有の戦争体験によって種々の外傷体験を持ち、そのため強烈なコンプレックスを持っている。

それゆえ戦中派の心理的特徴は、そのこともの世代であるいわゆる団塊の世代を中心とした一定の刻印を与え、さらに孫の世代にまでも少ながらぬ影響を及ぼしている。それゆえ戦中派、団塊、団塊ジュニアの親子三世代は共通の因果関係持ち、特殊な性格と行動様式を生み出すことになった。もちろんその性質は戦中派の親子三世代にとどまらず、当然他の世代にも影響を与え、戦後とくに現代の日本人の一定の精神心理的構造に決定的な特徴を与え、時代精神と言えるような潮流を生み出すことになったのである。彼らの心理的特性は一口言言えば父性の欠如であり、それは決して大げさてはなく日本の将来を決定するほどの重大な意味を持っていると言わざるをえなト。今や我々はその心理的特徴とその意味とを客観的に分析し、その悪影響を断つ方策を考えてみなげ杵はならない。

順序を逆にして、まず戦中派の孫の吐代に、どのような特徴が現れているのかを見てみよう。たとえば最近の若者の特徴を表すのに、よく「指示待ち人間」とか「マニュアル人間」という言葉が使われる。たしかにいまどきの若者の特徴をうまく言い表している。新新人類?私も折に触れて、その種の学生にお目にかかるようになっている。たとえば私の「哲学」の授業は囲碁を教えるというので有名になったが、実戦の時間というのを設けて、そのときには二人ひと組になって実際に碁を打つ。そういうときに、必ずと言っていいほどに、人の打つのを横で見ている学生がいる。私はイライラして「何をしているんだ、見学の時間じゃないんだ、早く打ちなさい」と言うと、「相手がいません」と答える。

私はますますイライラして、「相手、がいないなら自分で探しなさい!」と叱るはめになる。じつは、向こうのほうにも、あっちにも、友が打っているのを横で見ている学生がチラホラいる。つまりその気になれば、簡単に相手を見つけることができるのである。彼女らは「相手がいません」と言うと、誰かが相手を探してくれるという人生を送ってきたのであろう。親なり先生から「何々をしなさい」と具体的に指示されて初めて行動すればよいのだというように、慣らされているのである。

そのことで思い出すのは、私か今年、講義の時間に初めて経験しか「新しい」現象のことである。すでに授業中の私語の多さについては、数年前からいたるところで指摘されているが、今年は新現象を体験させられた。私はいつも最初の講義の乏きに、「オシャペリはいけない」と厳しい態度を示してから講義に入るのを常としている。注意をしてから講義に入った。大教室であるが、学生たちは静かに聞いている。今年の学生は質がいいのかなと、私はうれしくなった。ところが、ふと見ると、前から三分の一くらいの場所で、机の上に英語の教科書を広げて辞書を引いている者がいる。ちなみに私の授業は英語の授業ではない。「西洋精神史」という科目である。そこで英語の辞書を引いているのはいわゆる「内職」であるが、「内職」というのは教室の後ろのほうで机の下でこっそりやるから「内職」と言うので、前のほうでしかも机の上で堂々とやる「内職」は見たことがない。