2014年5月23日金曜日

金融機関のお粗末さ

何年も前に起こってしまったことの「責任」を、いまさらことこまかに追及して「犯人探し」をしてみても、多分に水掛け論に終わらざるを得ないことは、はじめからわかり切っている。もしそうだとすれば、いささか「臭いものに蓋をする」きらいはあっても、税金を使ってでもいいから、一刻も早く処理してしまうに越したことはない。何しろ、問題となっているのは、日本の金融システムの安定性であり、それは経済にとってもっとも基礎的な「インフラ」なのである。

議論が多岐にわたると、問題の核心がどうしてもぼやけてしまう。ポイントは、もしかりにバブルの崩壊がなければ、問題のすべては発生しなかっただろう、というところにある。そして、発生しないものは崩壊のしようがないから、最大の「犯人」は、結局のところバブルの発生そのものである。

それではバブルは、いったいどのようにして発生したのか。言うまでもなくバブルの根源は、一時期の日本に金融の超緩慢状態が生じ、カネがダブダブにダブついてしまったところにある。そこで、問題は二つに分かれる。その第一は、ダブついたカネが、いったいどのように使われたのか、ということであり、その第二は、そのようにカネがダブついてしまったのは、いったいなぜなのか、ということである。この二つのうち、より基本的なのは第二だが、ここではまず第一から始めよう。

ダブダブにダブついたカネは、言うまでもなく株式がらみ・土地がらみの貸付に向けられた。それは、株価・地価の値上がりが、永遠につづくにちがいないという判断ミス・錯覚・集団的狂気にもとづいていた。いまとなってみれば、いったいなぜそうした判断ミス・錯覚・集団的狂気が生じたのかを、説得力をもって説明をすることはむずかしいだろう。だが、もともとバブルとは、そういうものなのである。

とくに、当時の銀行など金融機関の行動(金融業以外の企業や個人にも、もちろん問題はあったが)は、お世辞にもほめられたものではなく、お粗末をきわめた。そのお粗末さは、残念ながら、不良債権の処理が問題となっている現段階でも、遺憾なく発揮されている。じつは私は(私だけでなく、国民の多くも、そうだろう)、日本の主要銀行(たとえば、都市銀行や長期信用銀行など)は、もう少しましなものだと信頼し、尊敬していた。その信頼・尊敬の念が、一瞬にして地に堕ちた感がある。

2014年5月2日金曜日

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三木さんは、逓信省岡山簡易保険相談所長のあと、厚生省に入省、健民課長から一九四六年に公衆保健局長、四八年に公衆衛生局長となった。四七年の保健所法改正にたずさわり、全国に八五〇ヵ所の保健所をつくった、いわば戦後の保健所の生みの親でもあり、同時に「保健婦」という制度もつくった。当時のことだからGHQの意向もあってつくられたわけだが、三木さん自身はそれにのっかったうえで保健所を公衆衛生の前線基地にしようと考えたわげである。全国の大学医学部に「公衆衛生学」の講座が次々と開設されたのは、この保健所法の改正が契機となっている。

現在のような保健所が成立した当時は、戦後の混乱期で医療機関も整っていなかった。いまのように都市部でも大病院が林立するということもなく、診療所も十分にはなかった。杉並の住民は「保健所」というものに″診療の場″をダブらせて見ていたとともに、新しい公衆衛生というものに興味や驚きのまなざしを向けていたのだろう。

住民の多くは、保健所を公衆衛生の拠点とは思わず、診療所と感じていたのだろうと思う。それというのも、保健所の前身の簡易保険相談所は全国に多数あって、ここでは戦前から外来を中心とした診療が行なわれていた。住民にはこのイメージもあったものと思う。

当時、保健所でもっとも力を入れていたのは、結核検診である。なにしろ死亡率第一位で死に病と恐れられ、特効薬もなかった。全国に八百数十ヵ所もあった保健所は、事実、国の結核対策の″尖兵”でもあった。多くの保健所では仕事のメインは結核を中心とした伝染病対策で、これは昭和二〇年代はずっと続いていた。そして結核検診で撮影したX線フィルムの読影も保健所のドクター(主として所長)が行なっているところが多かった。