2014年12月12日金曜日

コミュニケーション能力不足の社員は危ない

特に早期退職者を募集する場合、最も標的になりやすいのは中高年正社員である。成果主義型の賃金制度が導入されたり、実力主義の出世が増えたりしているとはいっても、依然として中高年正社員は様々な面で優遇されている。企業から見ると、中高年正社員はコスト的に高く、生産性に見合っていない賃金を得ている。そのためいリストラするのであれば、真っ先に対象となるのは中高年正社員である。また、世間も給料の高い中高年正社員に同情的でないことは注目していいだろう。

例えば、『電波利権』(新潮新書)の著者である池田信夫氏は、NHK地方局長が2000万円近い給与をもらいながら、主な仕事はライオンズクラブの会合に出たり、地元企業とのゴルフコンペに参加したりするというもので「若年世代を弾き出しているのはこういう年代だ」と批判しているが、こんなコメントは世間に大いに支持されることだろう(『働かない中高年リッチ解雇せよ「正社員」保護しすぎ論が台頭』2008年12月20日J-CASTニュース)。

「年齢」についで明確で合理的な判断基準は「人事評価」である。人事評価さえ正しければ、たとえリストラを実施しても、職場の雰囲気は悪くならない。その意味では、人事評価をきちんと行った上で、職場全員が納得できるような「普通解雇」を厳格に実施する企業は増えると思われる。厳しい人事管理をやる外資と同様に、日々の仕事の成果を評価することで、情け容赦なくクビを切る日本企業が続出するということだ。これは相当シビアに行われる可能性が高い。先程述べたように、個別に解雇するのは「普通解雇」であって、整理解雇ほど厳しい要件は課されない。

最もドラスティックな人事評価による普通解雇となると、四半期ごとに営業成績などの成果を測るということになるのかもしれない。日本人らしい少し穏健なものとなると、人事評価をきちんと行い、所定の成績をクリアできない正社員は、1年程度の経過観察を行い、それでも成績が改善されない場合、解雇されるということになるのだろう。これまでは「人事評価なんて、どうせヤラセだろ。給料にも出世にも反映されないじゃないか」という意見を述べる若手正社員が多かったが、今後は人事評価によってクビを切られてしまう恐れまで出てくる。

それでは、一体どれくらいの企業が「年齢」「人事評価」を基準にしてリストラを断行するだろうか。おそらく、そんなことができる企業はごく一部である。特に、大企業になればなるほど、そんな大胆で合理的な判断をできないだろう。実際、日本企業では思い切った差をつける成果主義は実現されておらず、正社員間で出世や給料に大きな差がついているわけではない。特に、労働法の遵守に敏感な大企業の多くは優柔不断で、メリハリのつく人事評価などできるとは思えない。そのため、なかなかリストラ対象を見つけられないとか、本来はリストラされるべきではない人が会社に嫌気を感じて去っていくとか、中高年リッチ正社員だけは粘り強く辞めないといった事例の方が多くなるかもしれない。

2014年11月12日水曜日

欧米との違いとは・・・

あなたも「結果オーライ」となるかどうかは分かりません。法律には様々な落とし穴もあります。実際は、すんなりと思い通りに行くには相当運が良くなければいけない、というのが現実です。

「裁判で強制されない法律」を守るわけがないのに、「本当に日本の裁判はそこまで不安なものなのか?」と疑問に思い、あるいは不安を抱いた方もおられるかもしれません。

「そんなにうまくいかないことがあるのは、弁護士の腕が悪いのでは?」などと思う人もいるかもしれません。しかし、実際の法律の仕組みや、日本の裁判実務がどのように動いているかを冷静に眺めると、いろいろと問題があっても仕方がないようになっています。

裁判にそれはどの問題がなければ、みんなもう少し裁判をうまく利用するはずですし、それによって、日本の社会でも法律がちゃんと守られて、人々加法的なモラルを尊重するような雰囲気になっているはずです。また、「法律トラブルに巻き込まれても、必ずうまく正義に沿って解決できるものだ」という安心感がしっかりと社会にあるはずです。

しかし、現実にはそうなっていない。それが巷の実感です。欧米と比べても問題です。そのことは、裁判の役割を日本と欧米で比較してみれば、はっきりと感じられます。

2014年10月11日土曜日

指示待ち人間

親の心理は必然的に子どもの心理に影響を与える。子どもは心理的に独立しておらず、彼らの心理状態はほとんど一〇〇パーセント、親の心理によって決定される。しかもその影響は親の意識的な心理によるよりは、むしろ無意識の心理によるところが大きい。親が自らの心理に無意識であればあるほど、子どもは親の無意識の影響をもろに受ける。戦中派の人々が自らの心理に無意識であるかぎり、彼らの子どもの世代は幟巾派の持っている無意識の偏りの犠牲にならざるをえない。戦中派は希有の戦争体験によって種々の外傷体験を持ち、そのため強烈なコンプレックスを持っている。

それゆえ戦中派の心理的特徴は、そのこともの世代であるいわゆる団塊の世代を中心とした一定の刻印を与え、さらに孫の世代にまでも少ながらぬ影響を及ぼしている。それゆえ戦中派、団塊、団塊ジュニアの親子三世代は共通の因果関係持ち、特殊な性格と行動様式を生み出すことになった。もちろんその性質は戦中派の親子三世代にとどまらず、当然他の世代にも影響を与え、戦後とくに現代の日本人の一定の精神心理的構造に決定的な特徴を与え、時代精神と言えるような潮流を生み出すことになったのである。彼らの心理的特性は一口言言えば父性の欠如であり、それは決して大げさてはなく日本の将来を決定するほどの重大な意味を持っていると言わざるをえなト。今や我々はその心理的特徴とその意味とを客観的に分析し、その悪影響を断つ方策を考えてみなげ杵はならない。

順序を逆にして、まず戦中派の孫の吐代に、どのような特徴が現れているのかを見てみよう。たとえば最近の若者の特徴を表すのに、よく「指示待ち人間」とか「マニュアル人間」という言葉が使われる。たしかにいまどきの若者の特徴をうまく言い表している。新新人類?私も折に触れて、その種の学生にお目にかかるようになっている。たとえば私の「哲学」の授業は囲碁を教えるというので有名になったが、実戦の時間というのを設けて、そのときには二人ひと組になって実際に碁を打つ。そういうときに、必ずと言っていいほどに、人の打つのを横で見ている学生がいる。私はイライラして「何をしているんだ、見学の時間じゃないんだ、早く打ちなさい」と言うと、「相手がいません」と答える。

私はますますイライラして、「相手、がいないなら自分で探しなさい!」と叱るはめになる。じつは、向こうのほうにも、あっちにも、友が打っているのを横で見ている学生がチラホラいる。つまりその気になれば、簡単に相手を見つけることができるのである。彼女らは「相手がいません」と言うと、誰かが相手を探してくれるという人生を送ってきたのであろう。親なり先生から「何々をしなさい」と具体的に指示されて初めて行動すればよいのだというように、慣らされているのである。

そのことで思い出すのは、私か今年、講義の時間に初めて経験しか「新しい」現象のことである。すでに授業中の私語の多さについては、数年前からいたるところで指摘されているが、今年は新現象を体験させられた。私はいつも最初の講義の乏きに、「オシャペリはいけない」と厳しい態度を示してから講義に入るのを常としている。注意をしてから講義に入った。大教室であるが、学生たちは静かに聞いている。今年の学生は質がいいのかなと、私はうれしくなった。ところが、ふと見ると、前から三分の一くらいの場所で、机の上に英語の教科書を広げて辞書を引いている者がいる。ちなみに私の授業は英語の授業ではない。「西洋精神史」という科目である。そこで英語の辞書を引いているのはいわゆる「内職」であるが、「内職」というのは教室の後ろのほうで机の下でこっそりやるから「内職」と言うので、前のほうでしかも机の上で堂々とやる「内職」は見たことがない。

2014年9月11日木曜日

地方債の累積

大蔵省は、「隠れ借金」なる言葉を、公的には用いていない。「予算説明資料」は、「今後処理を要する措置」という言葉によって表現している。これには、一九九四年度末現在でみると次のような「借金」がふくまれている。①国民年金特別会計への国庫負担金の未払い・五九四一億円、②地方財政対策改革による地方交付税特別会計借入金・五兆四四二二億円、③地方財政対策にともなう後年度負担・三兆一三〇八億円、④国鉄清算事業団からの継承債務の償還延期・四八二四億円、⑤自動車損害賠償責任再保険特別会計からの受け入れなど・三兆二四一三億円、⑥国鉄清算事業団の債務残高・二六兆円。したがって「今後処理を要する措置」として、大蔵省が事実上「隠れ借金」であることを認めている負債額は、三八兆八九〇八億円である。

大蔵省はこれとは別に「参考」として、①過去に国債整理基金への定率繰入を停止した累計額・二一兆七〇七〇億円、②地方交付税の特例措置にかかわる後年度清算額・一兆三四九八億円の存在を認めている。なぜ、この「債務」を「今後処理を要する措置」から除き、たんに「参考」としているのか、理由は定かでない。しかし、国債整理基金への定率繰入は、内閣の自由裁量事項ではなく、法定された義務である。また地方交付税は、所得税・法人税・酒税収入の三二パーセントと消費税収入(消費譲与税分を除く)の二四パーセントを原資として、自治体に一般財源として交付することが義務づけられている。いいかえれば、地方交付税の原資分は、自治体の財源である。したがって、特例措置にともなう後年度清算額は、中央政府の債務そのものとなる。

こうして、一九九四年度末現在、未処理のまま放置されている「隠れ借金」の累積額は実に、六一兆九四七六億円となり一般会計歳入歳出額の約九〇パーセント近くにおよぶ。加えて九五年度予算では、約六兆円の「隠れ借金」が新たに積み上げられた。国債残高二二一兆円に加えて「隠れ借金」六八兆円の現実を、どのように考えるべきだろうか。借金に足を取られたドロ沼のような財政状態というほかはないだろう。しかし、政治家の間からは、この現実につい七の危機感は、少しも伝わってこない。もともと、歳入予算における税収は「見積額」にすぎない。歳出に合わせて経済成長率を「高め」に見込み、歳入・歳出の帳尻を合わせておくことも可能である。だが年度途中で歳入欠陥が明らかになれば、補正予算によって税収を減額し、その補填を赤字国債に頼る以外にない。借金漬けの財政は、ますます「底なし」の悪化状況に陥ることも予測される。

先でみたように、中央政府の予算は、中央省庁自らによってそのすべてが消化されるわけではない。自治体への補助金として移転支出され、さまざまな事業となって消化されていく。このばあい、自治体は自主財源から補助事業の自己負担分を支出することに加えて、財政投融資資金を主たる原資とする地方債を発行して、自己負担部分に充当する。とはいえ、「地方公共団体にたいする国の財源措置の一部」といえば聞こえがよいが、地方債は、補助事業の実施に組み込まれている。中央省庁の側からするならば、地方債の発行を手当てすることで、補助事業予算を消化できる。

2014年8月16日土曜日

ドイツの戦後処理を見習え

今回も、提案ということでは同じだし、他国の同意がなくても日本だけでやれるという点でも同じである。しかし、方向は百八十度ちがう。そのうえ、それを行ううえでの勇気となると、もしかしたらより多く必要かもしれない。二十世紀の前半の五十年に日本と日本人が行ったことについて、具体的には植民地での行為と第二次大戦中の行為について、主として中国と韓国からの非難が絶えないようである。あちらも具体例に集約する必要ありと思ったのだろう。二十世紀前半の延長とでもいうつもりか、靖国神社への首相参拝に的をしぼったという感じになっている。

これを裁判に喩えれば、個人ならばアメリカ人もイギリス人もアジアの国々の人々もいるかもしれないが、国としては中国と韓国が原告席に、そして被告席には日本、他の国々は陪審員席に座っているというところだろう。そのうえこの「被告」には、有能で信頼できる弁護人に恵まれる可能性が低いときている。東京裁判でも示されたように、どうも日本人という民族は、言語を武器にしての戦闘は得意ではないようだ。弁護人には肯定的な意味での悪らつさが必要条件だが、日本の辞書では「悪らつ」を、たちが悪いこと、としか書いていない。これでは、良き結果につなげる手段としての悪らつさ、なんて生れようがない。

というわけで有効な弁護も期待できない状態で断罪を避けたいと思えば、どんな無能な弁護人でも勝てると思えそうな、徹底的な証拠固めをするしかない。そして、それは何かと言えば、二十世紀の前半に日本及び日本人が行ったことを、洗いざらい公表することである。不利なことがあっても、隠してはならない。隠さないで出した、ということですでに、公表した側の客観性を実証するのに役立つからである。それで何を公表するかといえば、まず第一に公文書のすべて。しかもそれは、原文、口語訳文、英語訳文の併記にする必要がある。

口語訳文は、今の日本人自身に知ってもらうため。昭和十二年七月七日生れの私は、支那事変の起った日に生れたと言われながらその実体を知らない。第二次大戦だって、終わったのは八歳の年である。この私か知らないのだから日本人の八割から九割は知らないにちがいないが、知る必要は絶対にある。なぜなら、知らないで被告席に立たされたのでは原告側の思うツボにはまるからで、中国はとくに、裁かれるべきは当時の政治と軍事の上層部であって一般の日本人には罪はない、と常々主張してきた。これは、敵を二分したうえで一方をたたく戦法だが、一致団結していることが防衛上での最善の策でもあるわれわれとしては乗らないほうがよい。

それに、日本人自身にとっても良くない。中国と韓国はしきりと日本に、ドイツの戦後処理を見習えと言ってくるが、あれも見習わないほうがよい。ドイツでは、ヒットラーとナチが悪かったので一般のドイツ人は知らなかった、という論法で通しているが、ナチの蛮行を少しでも知っている人ならば、ユダヤ人でなくても、それは嘘だと言うだろう。戦時中に生きた一般のドイツ人は、知りたくないと思い、知る手段も言論抑圧で断たれてからは、実際は何かおこっているのかへの関心さえも失っていったのである。

2014年7月22日火曜日

産業構造の調整力

なぜ景気対策が十分な有効性を発揮しなくなったのだろうか。産業構造のサービス化などの要因もあるが、不況の性格がこれまでにない構造的性格を帯びているからである。多少繰り返しになるが、過去の不況と平成不況は、どこが構造的に違っているのか整理しておこう。

第一は、深刻な国内金融システム不安である。多くの中小金融機関の経営破綻に始まり九七年一一月以降は拓銀や山一讃券、さらに長銀や日債銀といった大手金融機関までが潰れた。その後も、国民銀行・幸福銀行・東京相和銀行といった第二地銀の経営破綻が相次いでいる。こうした大きな金融システム不安は、戦後はじめて直面する事態である。

バブルとバブルの破綻によって銀行は大量の不良債権を抱え、依然として土地を中心にして深刻なスト。クデフレが続いている。そのため、銀行は貸し渋りに走り、それによって企業の資金操りが悪くなって景気を悪化させ、一層不良債権を膨らませるという信用収縮のスパイラル(悪循環)が生じてきたのである。さらに金融ビッグバン路線に基づくBIS(国際決済銀行)の自己資本比率規制が、貸し渋りを加速させている。

第二は、国際的な金融システム不安である。先に述べたように、一九九七年夏、タイのパーツの暴落をきっかけに東・東南アジア諸国に広かった経済危機によって、多くのアジア諸国は大量の不良債権を抱えたままである。さらに九八年秋に、ロシアの財政破綻と金融不安からルーブルの急落に端を発して中南米諸国にも飛び火した国際通貨不安も同様である。いまや。中国のバブルもはしけ、ブラジルの通貨レアルは半落している。そしてアメリカは貯蓄率がマイナスに転じており、いつバブルがはじけるか懸念されている。

こうした状況の下で、一九九九年一月にユーロが発足し、脆弱な二つの基軸通貨体制がスタートしている。ドルとユーロのクラッシュの危険性も指摘されている。これまで日本経済は、二度にわたる石油ショックも輸出の増加で乗り切ってきたが、中長期的に輸出の大きな伸びは期待できない状況にあるといってよいだろう。

第三は、産業構造の調整力に限界が見えている点である。戦後の日本経済は、キャッチアップの過程において、雇用吸収力のある産業を次々と交代させながら経済成長を達成してきた。高度成長期には、石炭から石油へのエネルギー転換を基礎にし、鉄鋼・造船・石油化学などの重厚長大産業がリードした。そして二度の石油ショックに際しては、自動車・電気製品の輸出、さらには情報機器や半導体の輸出が経済を引っ張る一方で、国内ではサービス産業が進展した。

2014年6月23日月曜日

国際交流は人間の尊厳を抜きにしては考えられない

発足以来今年三月までの四年間に約六百人のアジアを中心にした外国人女性を受け入れたが、トップはタイ女性、次いでフィリピン女性で、その両国で九割を占める。彼女たちの救援だけでなく、問題を広く社会に訴えかけるために、弁護士団体に「来日アジア女性の人権救済申立て」をするなどの活動もしている。婦人矯風会はキリスト教の女性団体だが。売買春と闘った百年の歴史を踏まえて、売春に組み込まれた女性を救うといった慈善的な姿勢を克服しつつ、彼女たちと同じ地平で人権を守る立場を貫こうしている。

名古屋ではカトリック教会をバックに「あるすの会」(滞日アジア労働者と共に生きる会)が八七年に発足し、男女出稼ぎ労働者だけでなく国際結婚をしたアジア人の救援活動にも取り組んでいる。特に四人のフィリピン女性が名古屋のスナック「ラパーン」で鉄格子の檻の中に監禁され、従業員にレイプされて売春を強いられたラパーン事件では、被害女性たちが加害者の経営者や従業員男性を告訴するのを支援し、懲役刑などかなり重い刑の上に、人権問題にもふれる厳しい判決を出させた。

「出稼ぎに来る人たちを本気になって受け入れるということがわれわれに今問われている。これまでの輸出型の援助とはまったく違った発想が必要だ。出稼ぎに来る人たちを通して、日常的な民際の交流ができれば、それは今までになかった国際交流になる。国際交流は人間の尊厳を抜きにしては考えられない。それがあって初めて連帯が意識できる。もし本気になってこの交流に取り組むのであれば、日本という国とアジアの国々についてもっと見えてくると思う」-会代表の狩浦正義神父は、国外での援助活動とは違う国内での日常的なアジアの人々との関わり方を的確に示唆している(同会のミニコミ『まいぐらんと』より)。

主として男性出稼ぎ労働者のための支援組織として、横浜、寿町の寿日雇労働組合が中心になって、八七年に「カラバオの会」(寿外国人出稼ぎ労働者と連帯する会)が結成された。労働者たちが仕事の現場でフィリピン人労働者と出会うようになったからで、賃金不払いや労働災害、暴力団による不法就労の弱みにつけこんだ人権侵害などに対して、体を張った救援活動に打ち込んでいる。アジア人出稼ぎ労働者の人権を守るには、彼らの滞在、就労を合法化することがまず先決だと、カラバオの会は他の救援団体に先駆けて、単純労働者も含めた外国人出稼ぎ労働者の合法化キャンペーンを始めた。結成一周年記念集会も「外国人出稼ぎ労働者の合法化に向けて」と銘打ったものだった。

2014年6月9日月曜日

高脂血症の危険因子

中性脂肪もコレステロールと同様に食事から取り入れられるものだけではなく、肝臓でもつくられます。その大部分は筋肉や心臓でのエネルギー源として使用されます。そして余ったものか、皮下脂肪のかたちで蓄えられます。リン脂質とは、血清脂質のうちリンを含む成分のことですが、細胞膜と血液中に多く合まれています。この成分も細胞膜をつくる際に欠かせない重要な成分です。遊離脂肪酸は中性脂肪が分解した時につくられ、ほとんどがエネルギー源として使われます。

高脂血症の実際の診断には総コレステロール、HDLコレステロール、中性脂肪の三者がもっぱら用いられています。これまで日本では、一九八七年度日本動脈硬化学会で示された血清総コレステロール値二二〇以上、中性脂肪値一五〇以上、HDLコレステロール値四〇以下を基準値として高脂血症治療が行われてきました。

しかし、高脂血症はあくまで数ある危険因子の一つとして捉えられるべきで、同時に存在する肥満、糖尿病。高血圧などの虚血性心臓病危険囚子を考慮した指針が必要です。一九九六年、危険因子の重要性を踏まえた新しい診断基準および治療目標か日本動脈硬化学会において公表されました。

高脂血症かどうかの判断には採血の条件が重要です。よく見られるのが食後の中性脂肪値の上昇です。空腹時の中性脂肪値が正常な場合には、食後六時間以内に元の値に戻りますが中性脂肪値が高い場合には回復が遅れます。中性脂肪値が高くても総コレステロール値には大きな変動は見られませんが、HDLコレステロールはわずかに低下します。したがって、総コレステロール値の評価は食後でもかまいませんが、中性脂肪値の評価には一二時間絶食で前日禁酒が原則です。中性脂肪値増加例では、それが守られたか確認する必要があります。

中性脂肪値が三〇〇未満の場合はLDL(いわゆる悪玉)コレステロールの値を総コレステロールーHDLコレステロールー中性脂肪という式で算出することができますが、あくまでも参考値にすぎません。中性脂肪値が三〇〇を超える場合には、この式が使えなくなり、LDLコレステロールを直接測定する必要があります。しかしLDLコレステロールの測定装置かまだ普及しておらず、検査センターに測定を依頼しているのが実情です。近い将来には、一般病院でも総コレステロールではなくLDLコレステロールを測定するようになることは間違いなさそうです。

2014年5月23日金曜日

金融機関のお粗末さ

何年も前に起こってしまったことの「責任」を、いまさらことこまかに追及して「犯人探し」をしてみても、多分に水掛け論に終わらざるを得ないことは、はじめからわかり切っている。もしそうだとすれば、いささか「臭いものに蓋をする」きらいはあっても、税金を使ってでもいいから、一刻も早く処理してしまうに越したことはない。何しろ、問題となっているのは、日本の金融システムの安定性であり、それは経済にとってもっとも基礎的な「インフラ」なのである。

議論が多岐にわたると、問題の核心がどうしてもぼやけてしまう。ポイントは、もしかりにバブルの崩壊がなければ、問題のすべては発生しなかっただろう、というところにある。そして、発生しないものは崩壊のしようがないから、最大の「犯人」は、結局のところバブルの発生そのものである。

それではバブルは、いったいどのようにして発生したのか。言うまでもなくバブルの根源は、一時期の日本に金融の超緩慢状態が生じ、カネがダブダブにダブついてしまったところにある。そこで、問題は二つに分かれる。その第一は、ダブついたカネが、いったいどのように使われたのか、ということであり、その第二は、そのようにカネがダブついてしまったのは、いったいなぜなのか、ということである。この二つのうち、より基本的なのは第二だが、ここではまず第一から始めよう。

ダブダブにダブついたカネは、言うまでもなく株式がらみ・土地がらみの貸付に向けられた。それは、株価・地価の値上がりが、永遠につづくにちがいないという判断ミス・錯覚・集団的狂気にもとづいていた。いまとなってみれば、いったいなぜそうした判断ミス・錯覚・集団的狂気が生じたのかを、説得力をもって説明をすることはむずかしいだろう。だが、もともとバブルとは、そういうものなのである。

とくに、当時の銀行など金融機関の行動(金融業以外の企業や個人にも、もちろん問題はあったが)は、お世辞にもほめられたものではなく、お粗末をきわめた。そのお粗末さは、残念ながら、不良債権の処理が問題となっている現段階でも、遺憾なく発揮されている。じつは私は(私だけでなく、国民の多くも、そうだろう)、日本の主要銀行(たとえば、都市銀行や長期信用銀行など)は、もう少しましなものだと信頼し、尊敬していた。その信頼・尊敬の念が、一瞬にして地に堕ちた感がある。

2014年5月2日金曜日

記事一覧

三木さんは、逓信省岡山簡易保険相談所長のあと、厚生省に入省、健民課長から一九四六年に公衆保健局長、四八年に公衆衛生局長となった。四七年の保健所法改正にたずさわり、全国に八五〇ヵ所の保健所をつくった、いわば戦後の保健所の生みの親でもあり、同時に「保健婦」という制度もつくった。当時のことだからGHQの意向もあってつくられたわけだが、三木さん自身はそれにのっかったうえで保健所を公衆衛生の前線基地にしようと考えたわげである。全国の大学医学部に「公衆衛生学」の講座が次々と開設されたのは、この保健所法の改正が契機となっている。

現在のような保健所が成立した当時は、戦後の混乱期で医療機関も整っていなかった。いまのように都市部でも大病院が林立するということもなく、診療所も十分にはなかった。杉並の住民は「保健所」というものに″診療の場″をダブらせて見ていたとともに、新しい公衆衛生というものに興味や驚きのまなざしを向けていたのだろう。

住民の多くは、保健所を公衆衛生の拠点とは思わず、診療所と感じていたのだろうと思う。それというのも、保健所の前身の簡易保険相談所は全国に多数あって、ここでは戦前から外来を中心とした診療が行なわれていた。住民にはこのイメージもあったものと思う。

当時、保健所でもっとも力を入れていたのは、結核検診である。なにしろ死亡率第一位で死に病と恐れられ、特効薬もなかった。全国に八百数十ヵ所もあった保健所は、事実、国の結核対策の″尖兵”でもあった。多くの保健所では仕事のメインは結核を中心とした伝染病対策で、これは昭和二〇年代はずっと続いていた。そして結核検診で撮影したX線フィルムの読影も保健所のドクター(主として所長)が行なっているところが多かった。

2014年4月17日木曜日

健康長寿社会

さきにも少し触れたように、長野県の健康が注目を浴びるようになった。私は、一九八〇年代後半にも長野県について取材したことがある。そのときの将来予測では、今後は長野県の老人も都会人化し、以前のような、粗食に甘んじ運動(労働)に精を出すという生活習慣が崩れるだろうから、結果的に平均寿命の順位も下がるだろうとしていた。
 
ところが、案に相違してというか、長野県の平均寿命は、その後ますます順位を上げ、一九九〇年度には、男性一位、女性四位となった(参考までに九四年度の長野県の平均寿命は、男性七七・九三歳、女性八四・一三歳)。単に平均寿命の長短だけで、健康度の優劣を論じることはできないが、前述したように、長野県は同時に一人当たり老人医療費も全国一低い数字を維持している。これは健康寿命が長いということを意味するのではないか。

では、なぜ長野県がそれを実現することができたのだろう。その理由を自分の目で確かめてみたいと以前から思っていたところ、先日、長野県を訪れる機会を得たので、実際に訪れて得た感想と多少の考察をまとめてみたい。老人医療費が低く、平均寿命が長い。これはつまり、「健康で長生き」という理想的な状態にかなり近いことを意味する。さらにいえば、これを発展させ、「日本全国を長野県」にすることができれば、日本の医療費の将来展望もかなり明るくなるはずだ。

長野県は、人間が健康的に暮らしていくのに、地理・気候、人口構成、あるいは保健・医療・福祉環境のすべてにおいて、他の県と比較して格別に恵まれているわけではない。だとすると、もし、長野県に何らかの「健康長寿の秘訣」があるとするなら、その方法論は、広く他の地域にも応用することが可能かもしれない。