2014年8月16日土曜日

ドイツの戦後処理を見習え

今回も、提案ということでは同じだし、他国の同意がなくても日本だけでやれるという点でも同じである。しかし、方向は百八十度ちがう。そのうえ、それを行ううえでの勇気となると、もしかしたらより多く必要かもしれない。二十世紀の前半の五十年に日本と日本人が行ったことについて、具体的には植民地での行為と第二次大戦中の行為について、主として中国と韓国からの非難が絶えないようである。あちらも具体例に集約する必要ありと思ったのだろう。二十世紀前半の延長とでもいうつもりか、靖国神社への首相参拝に的をしぼったという感じになっている。

これを裁判に喩えれば、個人ならばアメリカ人もイギリス人もアジアの国々の人々もいるかもしれないが、国としては中国と韓国が原告席に、そして被告席には日本、他の国々は陪審員席に座っているというところだろう。そのうえこの「被告」には、有能で信頼できる弁護人に恵まれる可能性が低いときている。東京裁判でも示されたように、どうも日本人という民族は、言語を武器にしての戦闘は得意ではないようだ。弁護人には肯定的な意味での悪らつさが必要条件だが、日本の辞書では「悪らつ」を、たちが悪いこと、としか書いていない。これでは、良き結果につなげる手段としての悪らつさ、なんて生れようがない。

というわけで有効な弁護も期待できない状態で断罪を避けたいと思えば、どんな無能な弁護人でも勝てると思えそうな、徹底的な証拠固めをするしかない。そして、それは何かと言えば、二十世紀の前半に日本及び日本人が行ったことを、洗いざらい公表することである。不利なことがあっても、隠してはならない。隠さないで出した、ということですでに、公表した側の客観性を実証するのに役立つからである。それで何を公表するかといえば、まず第一に公文書のすべて。しかもそれは、原文、口語訳文、英語訳文の併記にする必要がある。

口語訳文は、今の日本人自身に知ってもらうため。昭和十二年七月七日生れの私は、支那事変の起った日に生れたと言われながらその実体を知らない。第二次大戦だって、終わったのは八歳の年である。この私か知らないのだから日本人の八割から九割は知らないにちがいないが、知る必要は絶対にある。なぜなら、知らないで被告席に立たされたのでは原告側の思うツボにはまるからで、中国はとくに、裁かれるべきは当時の政治と軍事の上層部であって一般の日本人には罪はない、と常々主張してきた。これは、敵を二分したうえで一方をたたく戦法だが、一致団結していることが防衛上での最善の策でもあるわれわれとしては乗らないほうがよい。

それに、日本人自身にとっても良くない。中国と韓国はしきりと日本に、ドイツの戦後処理を見習えと言ってくるが、あれも見習わないほうがよい。ドイツでは、ヒットラーとナチが悪かったので一般のドイツ人は知らなかった、という論法で通しているが、ナチの蛮行を少しでも知っている人ならば、ユダヤ人でなくても、それは嘘だと言うだろう。戦時中に生きた一般のドイツ人は、知りたくないと思い、知る手段も言論抑圧で断たれてからは、実際は何かおこっているのかへの関心さえも失っていったのである。