2013年7月5日金曜日

NAFTAの実体

常識にしたがえば、メキシコはこれまでどおり、自由市場と通貨価値の維持という路線を続けるべきだということになります。アメリカの政府関係者は現にそう言っていますし、最後までそう言いつづけるでしょう。わたしが政府の人間だとしたら、おなじことを言うと思います。しかし、わたしたち民間人は、無責任なことや、言いにくいことを言える立場にあります。今後、メキシコでなにが起こるかについて、わたしなりの考えを言うなら、昨年、多くの国がそうしたように、メキシコも、ワシントン流の見方のうち一方を捨てざるをえなくなるでしょう。その場合、捨てる方を間違えて、失敗したはずの保護主義政策やナショナリズム政策に逆戻りする可能性もあります。政府が最後まで金融引き締め政策にこだわれば、その可能性は高くなるでしょう。

しかし、わたしの見るところ(メキシコの事情に詳しいわけではないので、あくまで部外者としての意見ですが)、ワシントン流の見方のうち、もう一方が捨てられることになるでしょう。イギリス、スウェーデンは、状況がどうなろうとも為替レートを維持する方針に変わりはないと断言していましたが、どちらの場合も、最後には道理が勝ちました。投機売りを浴びて方針を転換せざるをえなくなったことが、かえって幸いしたのです。近いうち、メキシコでこれとおなじことが起きないとしたら、それこそ意外です。つまり、わたしの希望的観測では、メキシコは経済改革の総仕上げの一環として、通貨を切り下げることになるでしょう。

このところアメリカでは、NAFTA(北米自由貿易協定)法案が最大の政治争点となっている。このように国論を二分する貿易法案は、スムートーホーレー関税法以来である。協定の実質的な内容や予想される影響から見で、これほど激しい論争が展開されていることは、理解できない。また、論争をきっかけに、事実をたんねんに検証してみようという傾向が見られるわけでもない。NAFTA反対派を説得しようとしても、議論は不毛に終わることが多い。一九世紀末、ウィリアムージェニングズーブライアン大統領候補が銀貨自由鋳造制を提唱したが、その熱狂的な支持者である農民に、それでは農家が抱える問題は解決しないと説得するのと、変わりがない。

実際、この二つのケースはよく似ている。一八九〇年代のポピュリスムは、いってみれば、アメリカ経済の工業化という大きな流れに逆らって、農家を守ろうとする必死の抵抗であった。金本位制を維持すべきか、あるいは、銀貨の自由鋳造を認めて金銀複本位制にすべきかの選択は、農業セクターが現実に抱える問題とはほとんど関係がなかった。強いていえば、銀貨の流通によってインフレが発生すれば、多額の負債を抱えた一部の農家にとって、一時的な救済になったかもしれない。しかし、それで工業化の流れがくつがえされるわけでもなければ、流れが目に見えて緩むわけでもなかった。

それでも、金銀複本位制か金本位制かという争点は、国民にとってわかりやすいものであり、ひとつの象徴であった。「アメリカを金の十字架にかけてはならない」という訴えは、スローガンとして有効だった。だからこそ、銀貨自由鋳造制という見当違いの主張を、ポピュリストが政策綱領の中心に据えるようになったのである。NAFTAに対する強硬な反対論も、基本的に当時のポピュリスムと変わりがない。アメリカ経済のサービス化の流れに逆らって、。‐製造業を守ろうとする必死の抵抗である。貿易、とりわけメキシコとの貿易は、サービス化の流れとはほとんど関係がない。

突発的で不合理な投資ブーム

NAFTAがそれほどすばらしいものであるとすれば、成功しない可能性などあるのでしょうか。その可能性はあります。これには、二つの場合が考えられます。ひとつは、アメリカが最終的にNAFTAを批准するかどうか、まだはっきりしていないことです。わたしの見るところ、批准しない可能性は低いように思えます。クリントン政権が主に外交政策上の理由から、成立に全力を注ぐことはたしかでしょう。気分を害されるかもしれませんが、メキシコの現政権はアメリカにとって夢が実現したといってもよいでしょう。アメリカで教育を受け、改革の意欲に燃えたテクノクラートが、独裁の歴史を一掃し、近代国家、民主国家をつくりあげようとしています。

アメリカ政府がこうした友好国の成功の見通しを危うくするとすれば、馬鹿げているとしかいいようがありません。だからといって、その可能性がないわけではありませんが、かなり低いと思います。 NAFTAが失敗する可能性として、もうひとつのケースが考えられます。メキシコで経済危機が起きた場合です。その危機は、NAFTAとは関係がないかもしれませんが、カナダ、フランスが抱えている経済問題も自由貿易とは関係がないのです。メキシコで危機が起こるとすれば、それはどのようなものでしょうか。メキシコは現在、資本流入に大きく依存していますが、これが危機につながる可能性は十分にあります。

前述のように、メキシコへの巨額の資本流入は、じつは、経済改革が将来成功することを見込んでの前払いなのです。この数年来、メキシコは、投資家や識者の間でブームになっています。いまでは、ブームが過熱しています。わたしの知人にメキシコの政府関係者がいますが、借入ができなかった一九九〇年以前と、投資ブームの現在とをくらべて、こう語っています。「当時、メキシコはそれほど悪くなかったし、いまも、それほどよくはない」。アメリカでは(もちろんメキシコでではなく)、昨年になっても、中国並みの離陸を果たしたかのように、「メキシコの奇跡」が話題になっていました。

しかし、現実のメキシコは、ひいき目に見ても、まだ奇跡が起こりはじめた段階です。この数年来、実質成長率は人口増加率をI、ニポイント上回っているにすぎません。アメリカに近い生産性をあげている産業も少しはありますが、全体とすれば生産性はあまり仲びていません。経済が成長軌道に戻って以降も、失業率は上昇しています。これはよく知られている事実であり、メキシコ政府に問題があるわけではありません。要するに、メキシコは、海外投資家によって実力を正当に評価されているというより、突発的で不合理な投資ブームの標的になっているのです。

ブームにはかならず終わりがあります。このブームが終わったらどうなるでしょう。あるいは、成長が減速したらどうなるでしょう。もっとも、景気はすでに下降局面に入っていますが。経済を自由化するという政府の基本戦略は、間違っていません。むしろ、長期的に見て、これ以外にメキシコが貧困から抜け出す道はありません。しかし、メキシコ経済は短中期的に不安材料を抱えています。それは、GDPの六八Iセントにのぼる資本流入が毎年続かないかぎり、ペソが大幅に過大評価されているという問題です。現在のメキシコの実質為替レートが、一九八八年当時より大幅に上昇している原因については、意見の分かれるところです。海外資本の自然な流入によるものだとする見方と、インフレ抑制の手段として為替レートを利用しているからだとする見方がありますがいそれはあまり問題ではありません。現実の問題は、今後も海外資本が従来どおりのペースで流入するかどうかです。しかし、これは期待できそうにありません。とすれば、どうしたらよいでしょうか。

2013年7月4日木曜日

「お受験エリート」の問題

本当は、これまでお話ししてきたように、団塊世代の一次退職に伴って浮いた人件費を若者に回す努力をすることで、内需の減退を防ぎ、際限ない経費削減地獄を脱することが可能です。あるいは高齢富裕層が座して株価下落を見ているのではなく、持っている金融資産でも消費に回してくれれば、国内経済はドラスティックに浮揚します。ですが、〇〇年に一度の不況」なる標語の下、「今は不景気だから仕方ないじやあないか」という言い訳が企業社会にまかり通っているために、若者の雇用を守ろうという空気はカケラも出てきていません。「景気対策は政府の仕事」という、政府の財政状態を考えれば極めて非現実的な考えが蔓延しているために、自分で消費することで金融資産を防衛しようとしている富裕層にもついぞ会ったことがない。その結果各企業の国内販売がストレートに落ち、株価も下がる、つまり皆でお互いのクビを絞め合っている状況が続いています。

この事態を招いた最大の原因が、「日本人の加齢に伴う生産年齢人口減少」という事態の本質を無視し、起きていることを無理やりに「景気循環」だけで説明してしまうことです。「すべては景気が回復してから」と、ミクロ面での失敗までを景気のせいにしてしまい、しかも今やらねばならないことまで先送りにすることも正当化されてしまっているわけです。しかし過去一〇年以上そうであったように、彼らが日本人の加齢を考慮に入れて適切な対策を取らない限り、好景気が来ようと不景気に戻ろうと今後ともずっと、企業の過剰在庫は腐り続け、内需は縮小を続けて行きます。

ですが本当は、生産年齢人口減少は、(若者の所得をそれに応じて増やしていければですが)「日本の雇用や内需を維持しつつ同時に生産性も高めていける」という、日本の歴史が始まって以来の大きなチャンスなのです。企業は「景気対策」を政府に任せるのをやめ、自らが若者を雇用することで内需を拡大させる。他方で政府は(金持ちも生活困窮者も一律に支援する今のような年金への財政投人をやめ)困窮した高齢者へのセーフティーネットを万全にすることで、高齢者の退職を促進する。そのような新たな分担ができれば、数十年後の日本は、現在の経済規模を維持したまま、数割は高い生産性を達成していることでしょう。若い世代の所得上昇や女性就労の促進に伴って、それから団塊世代の死去に伴う社会福祉負担の絶対額の減少もあって、出生率も大きく上昇し、毎年の出生数は現在よりは少ないレベルながら安定してくるものと思われます。

その頃の日本、生産年齢人口が三-四割減った後の国土の姿はどうなっているのでしょうか。戦後半世紀を支配した、都市開発地域拡大・容積率上昇・土地神話といったものは、すべて崩壊しています。人口減少に合わせて都市開発地域を縮小し、旧来の市街地や農山村集落を再生し、中途半端な郊外開発地は田園や林野に戻すこと(コンパクトシティ化)が各地で進むでしょう。その中で、戦後日本が失ってきた最大の資源である美しい田園景観と、それぞれがちゃんと個性を持った都市景観の復活が図られます。容積率を下げて、安普請の高層建築物をスカイラインの整った中低層建築物、それも耐震性の高い高品質の建物に建て直す「減築」も当たり前になるでしょう。

また、生産年齢人口=土地利用者の減少に伴う地価の著しい下落と、上地を保有するだけで利益を得てきた世代の死去に伴い、不動産取引はずっと流動化します。定期借地の普及による「土地の所有と利用の分離」の常態化、土地ではなく建物の生む収益による不動産評価手法の定着、ごね得地権者の消滅による非耐震建築物建て替えの迅速化、などが期待されます。上地保有が貯蓄手段ではなくなっていく中で、工芸品や美術品、銘酒、名車、名盤、優れたデザインの建築物など、ヴィンテージの付く商品の購入が代わりの貯蓄手段となっていき、社会の中で文化やデザインの占める地位が年々高くなっていくことになるでしょう。大量生産品市場がゆっくり縮小する一方でヽ地域地域の個性を滑かした手作りの地産地消品を供給する零細事業者(新規参入する社会起業家も多く含まれるでしょう)が増え続けます。海外から安価な大量生産普及品を購入する流れも拡大しますが、他方で少し遅れて人口成熟して来るアジア諸国などに向け、そうした高価な地産地消品を輸出する流れも年々太くなっていくでしょう。

そうそう、私か随所で自戒を込めて批判してきた「お受験エリート」の問題ですが、正解のある問題・論証可能な問題に答えることだけが得意な優等生が、社会に出てから現実不適応症候群を起こしていく、という状況が今後とも二〇年程度は続くのでしょう。ですがそういう試験だけが得意な炉荊エリートは、結局社会の一線から退場して行かざるを得ない。あるいはそういう層に支配された一部大企業なり官庁なりは消えて行かざるを得ない。親の恐怖心を煽りお受験競争に駆り立てることで儲けようとしてきたお受験産業の面々も、どんなに恰好いいことを言っていても少子化の中で次々と消滅していくしかないことでしょう。繰り返しますが、真のエリートやリーダーというものは、赤絨毯をしいた廊下を手を引いて歩かせながら育てるものではない。草莽の中から、旧来の基準で言えば学歴もない、職歴もない、だが人を引っ張る力と魅力と清潔さのあるリーダーが必ず出てくると思いますよ。

いや、本当はリーダーはさはどの問題ではありません。日本というのは常に、現場で汗をかいている普通の人たちが支え・何度でも驚ぴせてきた社会です・その現場力、雑草力を私は信頼します。私か深い確信をもって想像するのは、「多様な個性のコンパクトシティたちと美しい田園が織りなす日本」の登場です。人口減少の中で一人一人の価値が相対的に高まる中、その中で暮らす人々も、それぞれやりがいのあることを見つけて生き生きとしています。そうした未来の実現に向けて自分の地域を良くして行こうと活動する老若男女はどんどん増えていくと、私は新たな風の始まりの部分を日々全国で実感しているのです。本当に長い間、ご清聴いただきありがとうございました。

住宅需要激増期の公営住宅供給

実際戦後の日本では、一生の買い物として高いローンを組んで自宅を購入することが、当たり前の行動として広く行われてきました。もちろんそうはいかなくて最後まで公営住宅にいても、快適性が劣るだけで生存権までもが損なわれたわけではなかったのですが、皆さん損得を度外視しているのではないかと思うくらいに日本の中流階層の自宅講 購入志向は強く、公営住宅の潤沢な供給はそうした意識を阻害しなかった(=民間による住宅供給市場の成長を阻害しなかった)のです。余談ですが、現在の途上国援助で公的住宅を建てるときに繰り返されている失敗が、現地の民間住宅よりも快適な水準の公営住宅を供給してしまうということなのです。こうします、政府関係にコネを持っているような所得の高い層が公営住宅に入居してしまい、庶民は手が出ません。その結果スラムは消えないし、良好な民間住宅市場の発展も阻害されてしまうわけです。実は日本の医療福祉分野はこれと似た失敗をしているように思えます。

私は現在需要激増期にある医療福祉についても、住宅需要激増期の公営住宅供給・民間住宅供給の役割分担と同様の仕組みが機能するようにすべきだと考えています。すなわち、公的な医療福祉サービスの中身は、公営住宅同様に、個人の生存権を十分に満足させる水準でなくてはなりません。ただそれはどうしても、十分に「快適な」水準であるとまでは言えないものにとどまります。そこから先、さらに快適なサービスを求める人は、民営賃貸住宅に引っ越した人や自宅を買った人と同じで、自分のお金でどんどんより快適な水準を追求していけるようにすべきなのです。

ただし、公的保険だけで生きていく人と、自分でお金を出してさらに快適なサービスを求める人と、味わう快適さは違いますが、平均寿命は同じであるということを目指さねばなりません。そして供給者側(=医師、看護師、介護福祉士、その他医療福祉関係者)も、公的保険で来る人と自分のお金で来る人、どちらを相手にしていても一定限度以上の十分に満足のいく収入は得られるような仕組みが必要だ(し、そういう仕組みの構築は可能だ)と考えるわけです。公営住宅を建設しても民間住宅を建設しても、建設業者にはそれなりの売上が入ったというのと同じことです。このように、公的介入によってそれなりに高めの最低線(ショナルミニマム)を保障しつつ、その先の快適性追求を市場経済原理に則って自由に認めるという結論は、過去に住宅市場で実現していたにもかかわらず、市場か政府介入かという今の不毛な二元論の中では忘れ去られがちになっています。専門分野の壁に阻まれているのでしょうか、簡単な温故知新ができていないわけです。

ですがこれを実現すれば、供給者側の人件費は確実に増やせます。それ自体が、ここで大テーマに掲げている「高齢富裕層から若者への所得移転」の一つのプロセスでもあるのです。さらには、先ほど述べました「生年別共済」の加入料を医療福祉の現場への料金支払いに回すことで、現場の苦しみをさらに緩和することが可能です。以上の提言は「言うは易し」でして、具体的に考えれば考えるほど障害は山積でしょう。戦術論の専門家から、「現実の制度設計や、制度の安定性の要請を踏まえていない」という批判が、それこそ山のように出てくるでしょう。しかし高齢者の激増という事態の方がよほど絶対的な現実でありまして、既存の制度設計などはそういう現実の前には吹っ飛んでしまうものです。ということで、以上の議論に対しては、まずはビジョンとしての優劣という観点から、戦術論の袋小路にトラップされないご批判、ご意見をいただければ幸いです。

おわりにI「多様な個性のコンパクトシティたちと美しい田園が織りなす日本」へ雇用情勢の一層の悪化が報じられています。特に若者の就職はさらに困難を増しています。正に団塊世代が六〇歳を超え一次退職しつつある中で、本来若者に関しては人手不足が生じていなければならないタイミングなのですが、現実の経済は悪循環の方向に向かっています。すなわち、団塊世代の一次退職・彼らの年収の減少・彼らの消費の減退・内需対応産業の一層の供給過剰感・内需対応産業の商品・サービスの値崩れ・内需対応産業の採算悪化・内需対応産業の採用抑制・人件費抑制・内需の一層の減退という国内経済縮小の流れが、渦を巻いているのです。





市場経済の効用を主張する立場

これは典型的な「政府の失敗」です。今はトレントとしていろいろなところで市場万能主義が批判されていますし、正しい批判もありますが、この場合は逆です。需要があるのに、しかも需要者の多くを占める高齢者の中には潤沢な貯蓄を持っている人間も多いのに、供給が十分になされず、それどころか供給者側が過労死しかねない状況に置かれている。結果として需要者も不安に震えるばかり。この情けない現状は、公共体の的を射ない介入が市場の正常な機能を妨げ、需給バランスを損なっている典型的な例なのです。

もちろん政府には言い分かあります。「市場経済原理を導入すると弱肉強食になってしまい、金持ちは高度な医療福祉を享受できるが、お金のない人間は満足なサービスを受けられなくなる」というような話です。言葉は恰好いいのですが、現状では供給者側かワーキングファーと化してしまっていて、特に介護の現場ではなり手がいないという状態が慢性化しているのですから、お金を本当に潤沢に払える特別な人間でない限り満足なサービスが受けられません。政府の存分な介入の末に、結局弱肉強食に近い状況が生まれてしまっているのです。しかも長時間低賃金労働で介護サービスや医療に従事している若者など、供給者側の就業者までもが「肉」の側に回っているのですよ。

これに対して市場経済の効用を主張する立場からは、「診療報酬や介護報酬を自由化し収入総額を上げることができるようにすることで、十分な人手を確保できるようにすべきだ」との声が出ています。つまりより大きな額を払う替わり、より快適な医療福祉サービスを求める人たちに、存分に奉仕し存分にお金をいただくことで、供給者側の収入を増やすべきだという考えです。私もこの原理は基本的に間違っていないと思うのですが、その分、潤沢にはお金を払えない人に対するサービスがおろそかになる懸念はないのでしょうか。実際問題、市場経済原理の貫徹を唱える向きの中には一定の比率で、「努力を怠った結果貧乏になっている人が、一種の見せしめとしてそれなりに苦しむことは構わない」という意見を持っている人が混じっています。

私は「努力できるのにしない人間をそれなりに締め上げること」は必要だとは思っていますが、「努力できる、できない」を「結果から一律に判別する」のはそもそも難しいと思っています。さらには、医療福祉や教育といった、個人の生存権や次世代の機会均等に関係する部分を締め上げに使うことには反対です。従って、「貧乏な人がある程度苦しむことは構わない」という発想の強い連中と同一視されることはとても困ります。そういうことを主張しているのではないのですよ。ですが、「潤沢にはお金を払えない人に対するサービスがおろそかになるという事態は防ぎつつも、より大きな額を払ってもいいからより快適な医療福祉サービスを求める人たちに存分に奉仕し存分にお金
をいただいて、供給者側の収入を増やすこと」は、同時に実現可能だと思っています。

実際にこれまでの日本では、需要が著しく増加した局面で弱者保護と金持ち相手の売上増加を同時に達成できた分野が存在するのです。それが住宅供給です。四〇年から九五年の間に、日本の生産年齢人口はちょうど倍増しました。これに応じて、膨大な数の住宅供給がなされなくてはならなかったのですが、戦後日本は一切スラムを形碑することなく、求める者全員に、大なり小なり文化的・健康的な生活を営むことのできる住宅を供給することに成功したのです。これはいかなる方法によってなされたのでしょうか。政府の介入(日公共住宅の提供)と民間企業による供給のベストミックスによってです。

現在でも残っていますが、昭和三〇年代や四〇年代には、現在よりもずっと多くの人が住宅公団・都道府県・市町村営の住宅に住んでいました。公共部門によるこれら住宅の供給が、親世代の二倍も多かった戦時中生まれや戦後生まれの団塊世代の高波を吸収したのです。多くは木造の長屋か、コンクリート建てでもエレベータのない集合住宅で、間取りは狭くトイレは汲み取りでしたが、衛生状態が悪くて疫病が蔓延するとか、住人の平均寿命が他よりも劣るとかということはありませんでした。他方で、ここが重要なのですが、そうは言ってもそこを出て民間の供給する住宅(持ち家  含む)に移った方が快適性は高いので、多くの人が何とかお金を貯めてそこを出て行こうとしていたわけです。