2013年11月5日火曜日

「人生の充足」ということ

抽象的な理念ではなく、こうしてGNHすなわち「国民総幸福」は経済発展の新しい「哲学」として注目され、れっきとした市民権を得た。ところが奇妙なことに、ブータンの国語であるゾンカ語では、「ギェルヨンーガキ・ペルゾム」というGNHに相当する言葉はあるにはあるが、それはGNHの訳語であり、どこか仰々しくてぎこちないので、日常会話ではほとんど用いられない。わたしは、GNHを表明したものとして紹介されるゾンカ語の国王演説(ちなみに、国王は国民に向けてはソンカ語でしか話さない)をいく度か聞いたことがあるが、GNHに相当する言葉は見当たらなかった。

また、国王に面謁した折にも、国王自身の口からGNHという言葉を聞いたのは、後述する一回だけである。国王がゾンカ語で繰り返し□にされたのは、国民が「ガートド、キートト(喜び、幸せ)」(傍点を打ったが、キは、「ギェルヨンーガキーペルソム」の「ガキ」である)であることが大切である、というきわめて平易な日常的言葉だけである。そして特徴的なのは、これを国家とか社会といったレベルではなく、家族という一人一人にとってもっとも身近なレベルで話されることである。このことに関して、わたしには忘れがたい思い出があるので、私事であるが記しておきたい。わたしは一九八〇年代ブータンに滞在していた当時フランス人と結婚していたが、ブータンを離れてから離婚し、数年前に日本人女性と再婚した。

そして二〇〇四年秋にドルジエーワンモーワンチュック王妃が来日された折、王妃がわたしの再婚相手に会いたいとおっしゃったので、京都で一緒に食事をした。その後二〇〇五年にテインプで国王に面謁した折、国王は、「再婚相手の日本人はすばらしい女性だと王妃から聞いたが、それはあなたのGNHにとってとても大切なことで、わたしは嬉しく思っている」とおっしやった。これがわたしが国王の□がらG良Hという言葉を聞いた唯一の機会である。いずれにせよ、家族重視という立場は、国王の政策の柱をなしているが、それは、国王の私生活においても、家族と過ごす時間をいかに大切にされているかを見ても明らかである。GNHが、抽象的な哲学理念、経済概念ではなく、日常生活に即した実際的なあり方であるということを端的に物語っている。提唱者である国王による理論的に構築されたGNH論が存在しない所以である。

近年、ブータン国内はじめ、世界のあちこちでGNH「国民総幸福」に関するシンポジウムやセミナーが開かれるようになり、関連した出版物も増えている。日本でも、「ブータンと国民総幸福量(GNH)に関する東京シンポジウム2005」が外務省主催で二〇〇五年一〇月に東京で開かれたり、『ブータンと幸福論』(本林靖久著、法蔵館、二〇〇六年)と題する本が出版されたりして、注目度が高くなっている。今後もますます多くの論議がなされ、GNHの理論構築がなされることであろう。そしてGNH「国民総幸福」という概念が、GNP「国民総生産」に象徴される経済至上主義の趨勢に、今後いかなる影響を与えていくか注目されるところである。

こうした現状の中で、GNH理念の最良の代弁者は、すでに紹介したドルジエーワンモーワンチュック王妃であろう。王妃は自著『幸福大国ブータン』の中で、次のように述べている。「きわめてわかりやすくいえば、GNH(国民総幸福)の立脚点は、人間は物質的な富だけでは幸福になれず、充足感も満足感も抱けない、そして経済的発展および近代化は人々の生活の質および伝統的価値を犠牲にするものであってはならない、という信念です。GNHを達成するために、政策的にいくつかの優先分野が設けられました。繁栄が、国のすべての地域に、社会のすべての分野に共有される公平な社会経済開発、汚染のない環境の保護および促進、ブータンのユニークな文化遺産の保存および発展、民衆参加型の責任ある良い政治。これが国王の政策の基本的ガイドラインです」