2012年12月25日火曜日

新しい産婆たちの養成

さらに学校教育は学校で学んで得た知識を正統な知識としたから、それまで服要とされていた体験によって得た知識は教科書に載せられず無視されることとなった。また、学校教育が定着した後は、教育によって教科書で台てられた新しい専門家が登場した。彼らは医師、法律家、教師となり、ご尚度に科学的な知識を理論的に推理できたり、実証的に実験できる大として、権威が認められたのである。こうして明治を境として起こり定行した知識の種類、および誰がその領域の辱門家なのかについての価値規準の一大転換は私たちの行なう出産を人変扱いにくいものにした。

そして何よりもよかったのは、産婦自身も周囲の人々も、すべてが出産は産婦が産むもの、産婦が産まねば誰にも何にもできないんだという真実を認識していたことである。例えば、腹帯はお腹の中の子どもがふとらないようにと、とくに夜間はきつくまいた地方が多かった。これを指して、あやまった、非科学的な例とされることが多い。しかし、きつく巻く方がなぜいいのかの問いに、「子どもが大きくなりすぎると産婦がお産の時難儀するから」という当時の一般的な答は、基本的に出産をイメージする点では大変当を得ている。現代のように、「腹が安定し、冷やさないから」だの、「妊婦になった気がして自覚ができるから」などと表現するよりいっそうはっきりと、「出産はあなたが産み落とすもの。お腹の中の子どもが大きく育ちすぎたら、ほかならぬあなたがお産の時苫しむばかり」という、真実のメッセージを伝えている。

こうしてお産は、明治の初めにがいでは休験済みに女性たちを中心とした、産婦白身の身近なネットワークに任されていたから薄かった。私か直接会ったり、話を聞くことのできた、その時代の素人の出産介助にびハ性たちは、すでに述べたように、大変腹のすわっだしっかり者であった。もちろん何と言っても、体験をよりどころにしていたから、なかにはごく少数だが自分の体験だけを過信したり、現在わかっている身体知識水準に照らしてみれば、不浄観だけを信じて、衛生的に非常に問題となるような方法で、産婦や生まれた赤ちゃんを危険に陥れるような女性もいたらしい。

さて、明治末になると、そういう女性が問題視されるようにかっか。その上うな女性の再教育を目的として、大阪府立病院内や東京府病院内、新潟医学校内などで補習講義が開始されたが、当峙交通事情が悪かったことや、そういう女性自身が地元で子育てをしていたり、ある程度以トの年齢に達している場合が多く、なかなか人数は集まらなかった(例えば、一八八一年新潟医学校産婆教場では二六名の予定に対して、実際に入学したのは二一名というように)。

それを大変心配した産科医たちは、西欧でしっかりした助産婦活動を目のあたりにして帰国した後、本格的な産婆養成学校を自分たちで作りはしめた。その趣旨は浜田玄達が一八九〇年に政府に出した建白書に見るとおり、「正常産に専念し、異常になればすぐ医師にバトンタッチできる産婆」を、あるいは緒方正清(一八六四~一九一九年)は「産婆には教育が必要、特に消毒知識を伝達することが重要」と述べているとおりである(助産あるいは助産婦の歴史の詳細については『助産婦雑誌』一九八一年八月号、緒方正清著『日本産科学史』科学書院、蒲原宏著『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦協会にくわしい)。