実際戦後の日本では、一生の買い物として高いローンを組んで自宅を購入することが、当たり前の行動として広く行われてきました。もちろんそうはいかなくて最後まで公営住宅にいても、快適性が劣るだけで生存権までもが損なわれたわけではなかったのですが、皆さん損得を度外視しているのではないかと思うくらいに日本の中流階層の自宅講 購入志向は強く、公営住宅の潤沢な供給はそうした意識を阻害しなかった(=民間による住宅供給市場の成長を阻害しなかった)のです。余談ですが、現在の途上国援助で公的住宅を建てるときに繰り返されている失敗が、現地の民間住宅よりも快適な水準の公営住宅を供給してしまうということなのです。こうします、政府関係にコネを持っているような所得の高い層が公営住宅に入居してしまい、庶民は手が出ません。その結果スラムは消えないし、良好な民間住宅市場の発展も阻害されてしまうわけです。実は日本の医療福祉分野はこれと似た失敗をしているように思えます。
私は現在需要激増期にある医療福祉についても、住宅需要激増期の公営住宅供給・民間住宅供給の役割分担と同様の仕組みが機能するようにすべきだと考えています。すなわち、公的な医療福祉サービスの中身は、公営住宅同様に、個人の生存権を十分に満足させる水準でなくてはなりません。ただそれはどうしても、十分に「快適な」水準であるとまでは言えないものにとどまります。そこから先、さらに快適なサービスを求める人は、民営賃貸住宅に引っ越した人や自宅を買った人と同じで、自分のお金でどんどんより快適な水準を追求していけるようにすべきなのです。
ただし、公的保険だけで生きていく人と、自分でお金を出してさらに快適なサービスを求める人と、味わう快適さは違いますが、平均寿命は同じであるということを目指さねばなりません。そして供給者側(=医師、看護師、介護福祉士、その他医療福祉関係者)も、公的保険で来る人と自分のお金で来る人、どちらを相手にしていても一定限度以上の十分に満足のいく収入は得られるような仕組みが必要だ(し、そういう仕組みの構築は可能だ)と考えるわけです。公営住宅を建設しても民間住宅を建設しても、建設業者にはそれなりの売上が入ったというのと同じことです。このように、公的介入によってそれなりに高めの最低線(ショナルミニマム)を保障しつつ、その先の快適性追求を市場経済原理に則って自由に認めるという結論は、過去に住宅市場で実現していたにもかかわらず、市場か政府介入かという今の不毛な二元論の中では忘れ去られがちになっています。専門分野の壁に阻まれているのでしょうか、簡単な温故知新ができていないわけです。
ですがこれを実現すれば、供給者側の人件費は確実に増やせます。それ自体が、ここで大テーマに掲げている「高齢富裕層から若者への所得移転」の一つのプロセスでもあるのです。さらには、先ほど述べました「生年別共済」の加入料を医療福祉の現場への料金支払いに回すことで、現場の苦しみをさらに緩和することが可能です。以上の提言は「言うは易し」でして、具体的に考えれば考えるほど障害は山積でしょう。戦術論の専門家から、「現実の制度設計や、制度の安定性の要請を踏まえていない」という批判が、それこそ山のように出てくるでしょう。しかし高齢者の激増という事態の方がよほど絶対的な現実でありまして、既存の制度設計などはそういう現実の前には吹っ飛んでしまうものです。ということで、以上の議論に対しては、まずはビジョンとしての優劣という観点から、戦術論の袋小路にトラップされないご批判、ご意見をいただければ幸いです。
おわりにI「多様な個性のコンパクトシティたちと美しい田園が織りなす日本」へ雇用情勢の一層の悪化が報じられています。特に若者の就職はさらに困難を増しています。正に団塊世代が六〇歳を超え一次退職しつつある中で、本来若者に関しては人手不足が生じていなければならないタイミングなのですが、現実の経済は悪循環の方向に向かっています。すなわち、団塊世代の一次退職・彼らの年収の減少・彼らの消費の減退・内需対応産業の一層の供給過剰感・内需対応産業の商品・サービスの値崩れ・内需対応産業の採算悪化・内需対応産業の採用抑制・人件費抑制・内需の一層の減退という国内経済縮小の流れが、渦を巻いているのです。