これは典型的な「政府の失敗」です。今はトレントとしていろいろなところで市場万能主義が批判されていますし、正しい批判もありますが、この場合は逆です。需要があるのに、しかも需要者の多くを占める高齢者の中には潤沢な貯蓄を持っている人間も多いのに、供給が十分になされず、それどころか供給者側が過労死しかねない状況に置かれている。結果として需要者も不安に震えるばかり。この情けない現状は、公共体の的を射ない介入が市場の正常な機能を妨げ、需給バランスを損なっている典型的な例なのです。
もちろん政府には言い分かあります。「市場経済原理を導入すると弱肉強食になってしまい、金持ちは高度な医療福祉を享受できるが、お金のない人間は満足なサービスを受けられなくなる」というような話です。言葉は恰好いいのですが、現状では供給者側かワーキングファーと化してしまっていて、特に介護の現場ではなり手がいないという状態が慢性化しているのですから、お金を本当に潤沢に払える特別な人間でない限り満足なサービスが受けられません。政府の存分な介入の末に、結局弱肉強食に近い状況が生まれてしまっているのです。しかも長時間低賃金労働で介護サービスや医療に従事している若者など、供給者側の就業者までもが「肉」の側に回っているのですよ。
これに対して市場経済の効用を主張する立場からは、「診療報酬や介護報酬を自由化し収入総額を上げることができるようにすることで、十分な人手を確保できるようにすべきだ」との声が出ています。つまりより大きな額を払う替わり、より快適な医療福祉サービスを求める人たちに、存分に奉仕し存分にお金をいただくことで、供給者側の収入を増やすべきだという考えです。私もこの原理は基本的に間違っていないと思うのですが、その分、潤沢にはお金を払えない人に対するサービスがおろそかになる懸念はないのでしょうか。実際問題、市場経済原理の貫徹を唱える向きの中には一定の比率で、「努力を怠った結果貧乏になっている人が、一種の見せしめとしてそれなりに苦しむことは構わない」という意見を持っている人が混じっています。
私は「努力できるのにしない人間をそれなりに締め上げること」は必要だとは思っていますが、「努力できる、できない」を「結果から一律に判別する」のはそもそも難しいと思っています。さらには、医療福祉や教育といった、個人の生存権や次世代の機会均等に関係する部分を締め上げに使うことには反対です。従って、「貧乏な人がある程度苦しむことは構わない」という発想の強い連中と同一視されることはとても困ります。そういうことを主張しているのではないのですよ。ですが、「潤沢にはお金を払えない人に対するサービスがおろそかになるという事態は防ぎつつも、より大きな額を払ってもいいからより快適な医療福祉サービスを求める人たちに存分に奉仕し存分にお金
をいただいて、供給者側の収入を増やすこと」は、同時に実現可能だと思っています。
実際にこれまでの日本では、需要が著しく増加した局面で弱者保護と金持ち相手の売上増加を同時に達成できた分野が存在するのです。それが住宅供給です。四〇年から九五年の間に、日本の生産年齢人口はちょうど倍増しました。これに応じて、膨大な数の住宅供給がなされなくてはならなかったのですが、戦後日本は一切スラムを形碑することなく、求める者全員に、大なり小なり文化的・健康的な生活を営むことのできる住宅を供給することに成功したのです。これはいかなる方法によってなされたのでしょうか。政府の介入(日公共住宅の提供)と民間企業による供給のベストミックスによってです。
現在でも残っていますが、昭和三〇年代や四〇年代には、現在よりもずっと多くの人が住宅公団・都道府県・市町村営の住宅に住んでいました。公共部門によるこれら住宅の供給が、親世代の二倍も多かった戦時中生まれや戦後生まれの団塊世代の高波を吸収したのです。多くは木造の長屋か、コンクリート建てでもエレベータのない集合住宅で、間取りは狭くトイレは汲み取りでしたが、衛生状態が悪くて疫病が蔓延するとか、住人の平均寿命が他よりも劣るとかということはありませんでした。他方で、ここが重要なのですが、そうは言ってもそこを出て民間の供給する住宅(持ち家 含む)に移った方が快適性は高いので、多くの人が何とかお金を貯めてそこを出て行こうとしていたわけです。